こんにちは、よしこばです。
独立記念日だった昨日は、打合せ1件と取材1件がありました。
なんと、自著の販売が決定! という話はあるのですが、これはもろもろ決まってからご報告したいと思います。実は1冊目はすでに進行しているので、自著としては2冊めということですね。
さて。そんな打合せと取材の合間に渋谷駅のヴィレッジヴァンガードに立ち寄ったところ、太宰治コーナーが設置されていました。今日はそのお話を。
太宰治が大好きだった学生時代
僕はライターをしているので、「子どもの頃から読書が好きだったんですか?」と聞かれることがあるのですが、実はそうではありませんでした。同世代の人たちと同じく、ゲームと漫画は好きだったのですが、あえて小説を読むことはなかったんですよね。
でも、大学4年生になって、公務員試験に合格し、卒論も終わった秋頃から、めちゃくちゃ暇になってしまい、ここで試しに読書をはじめたところ、これが面白い。ということで、22歳から僕の趣味は読書になりました。
大学4年の当時、手にとっていたのはやはり日本の小説でした。村上春樹とか、恩田陸とか。そこから手が伸びたのが、太宰治でした。結局僕は太宰治と寺山修司という2人の作品にはとても心惹かれ、文庫本は手に入る限り買って読んだように記憶しています。
太宰治のニヒリズムはまだ社会に出る前の自分の感情と合っていたのでしょう。なんと独りでチェコに旅行したときにも太宰の文庫を持ち歩き、1日はホテルで太宰を読むのに費やすというくらい、とらわれていました。たしか富獄百景だったな。
なぜ太宰を読まなくなったのか
そして今、僕は太宰治の作品をほとんど手元に持っていません。以前はブックオフなどでほとんど購入していたのですが。
というのも、だんだんと作品を読まなく(読めなく)なっていったからなんですね。太宰治の作品は、単純に楽しめるものもあれば、人間失格のように、人の暗い部分に目を向けた作品もあります。
そうした作品は、大学時代の自分にとっては合っていましたが、社会人になって、大学時代とはうって変わって厳しい現実にぶつかった僕にとっては、あまり読みたい本ではなくなっていました。
その代わりに僕が好んで読むようになったのが、海外の文学作品です。ジョン・アーヴィング、カート・ヴォネガット、カレル・チャペック、ミラン・クンデラ……。そうした作品は日本の現実とはまったく異なるため、気軽に読めましたし、読んでいると自分の現実を忘れさせてくれた(当時は色々悩んでいたんですね)。
最近はウッドハウスにハマっています。この気楽さがたまらない。
あらためて太宰を手にとったのは、「森見登美彦」編ゆえ
そんな僕が再び太宰治を読むことになったのは、ひとつはフリーランスとしての現実が割と順調であり、以前よりは現実に対して不安を感じなくなった点があります。
そして、今回手にとったのはタイトルにある「森見登美彦 編」という言葉に引っかかったから。森見登美彦さんの作品は僕は以前から好きで、社会人になった後に好んで読む数少ない日本人作家のひとりでした。
森見登美彦さんの作品はユーモアに満ちていますよね。もちろん現実に対するくよくよはあるんですけど、それを笑い飛ばすユーモアがある。で、そんな森見さんが選んだ作品ということで興味がわいたんです。
そして、あとがきをみたときに、さらに「この本を買ってよかった」と思いました。引用しますね。
私は太宰治が自分自身の暗い側面に目を向けすぎた作品が苦手である。もちろんそれぞれ共感する部分もあるし、それらの作品が長く続く人気の秘密であることは頭では理解できる。しかし、たとえば中学生や高校生のとき、『人間失格』を読んでハマったかというと、そんなことはなかった。私は太宰を、もっと時間をかけて、好きになった。ハマらなかったのになぜ読み続けたのかというと、リズミカルで体臭が染みついたような文章に惹かれたことと、意外に愉快な作品があることを知ったからである。
この本は、太宰治にも奇想天外で愉快な作品があるよ、ということを、とくに若い読者に知らせる本である。太宰は、うじうじしている文章も書いたが、うじうじしていることを笑い飛ばす文章も書いた。
ここにすべての答えがありますね。そう、僕が太宰の作品から一度離れつつも、何となく気になり続けていたのは、そこに愉快な作品があったという記憶ゆえなんです。たとえば本書でも取り上げられている「カチカチ山」のような作品。人間の本質に迫りながらもあくまで滑稽。そして余韻が残る。
しばらくぶりに、太宰治を楽しみたいと思います。ヴィレッジヴァンガードはこういう面白い出会いがあるからいいですね。